case.50  慰安と治療

「……シキーフーイークー、クーフーイーシキ、シキソクゼークウ」お経でしょうか?「クウソクゼーシキ、ジューソウギョウシキ、ヤクブーニョーゼー」

「痛かったら、おっしゃってくださいね」

「シャーリーシー、ゼーショ……いえ」一度止めて、大丈夫です、続けてください、と塵界に下りてきたかのような低声を挟んできます。「覚悟してきましたんで……ホウクウソウ、フーショウフメツー」

 読経の声の方はいくぶん高いだけでなく、ボリュームが大きくもあります。

「……覚悟」

「フークーフージョウ」何かをかき消すための声のようでもあります。「フーゾウフーゲン」

「……不垢不浄 不増不減」

「ゼーコークウチュー」

「……次は頭の方にハリを刺していきますね」

「カクゴー」

「……カクゴー?」とわたしの耳にはきこえました。「覚悟?」

「シテキマシタンデー」と今度は音を落とさないまま返事をしているだけのようです。「ナオルタメニー」

「ナオルタメニー」

「ソーデスー」

「ああ……〝治るために〟」

「エエー」

「……なるほど」

「イタミニー」

「〝痛みに〟……」

「デも」という語尾はどことなくまた低声にきこえました。「いまのところは」

「はい」

「痛くないですね」

「そうですか」

 もちろん痛みの感受性にも個人差があります。

「覚悟したほどじゃ全然ないです」よっぽど痛いことを想像してきたのでしょう。「この膝痛が良くなるためには、しょうがないと思って来たんですが」

 この二ヶ月ほど前から左膝に痛みが出て、サポーターを付けたり、グルコサミンのサプリメントをのむなどして ―― わたし個人はこの二つの効果を疑っているのですが、それについてはひとまずおいておいて、だましだまし過ごしてきたそうですが

「左だけじゃなく右の方も」この三日間ほどは右膝にも痛みが出始めているのだそうです。「そんなに痛くないです」

 患側をかばって健側の方も悪化した典型的なケースでしょう。

「なんかポカポカあたたまってくるようで」

「気が通ってきたんですかね」

「むしろ気持ちいいくらいですね」

 そのように感じる方だってもちろん少なくはありません。

「マッサージみたいで」

「……マッサージ」

「ああいうのは、慰安っていうんですよね? 気持ちいいだけで、その場しのぎで、良くはならない……」

「……んー」と口ごもらざるをえないご質問です。「……どうでしょう……」

 どうでしょう……

「グリグリ揉んでもらって、あとからだるくなる……揉み返しって言うんでした?」

 どうでしょう……と、もう一つ二つこちらの心の中でもつぶやいておきます……どうでしょう。

「それで、こういうハリの方はチリョー」

 とまたお経のようにもきこえてきました。

「バアチャンニー、ミマモッテイテ、モラワナイトー」という底意があったのだそうです。「ビョーインノー、チューシャモー、ニガテデー」

「……なるほど」

「いあん、ジャナクテー、チリョー、ナンデー」

「……慰安と治療」

 たしかに慰安と治療は分けられがちな二項で、気持ちいいだけで終わってしまう慰安と、体は良くなるのかもしれないけれど痛みや不快感を伴う治療 ―― というように敵対し合う関係にもあり

「イタイー、イタイー、チリョー、ナンデー」

「……たしかにハリ灸は痛くて熱いイメージが強いですけど」

 どちらかとわざわざ言わなくてもハリ灸は〝治療〟側に属していて、患者さんの不調を治すためには痛みや熱さ等も辞さないスタンスであり

「マッサージの先生は、自分たちの慰安が見下されているって」〝治〟すことより〝慰〟めることに重きを置く慰安を見下げる風潮にもあるのですが……「治療の方から見下されているって」

 はたしてどうでしょう?

「……んー」

「先生も慰安のことを見下しているんじゃないですか?」

 慰安と治療はまったくべつの存在なのでしょうか?

「……いやいや」

 共存できないことがあるのでしょうか? という問いじたいがすでにわたしにとっては反語めいていて、揺らぎの少ない定見にもなりつつあります ―― いや、共存できないことはない。

「……慰安もすばらしいですし」

「本当ですか?」

 治療の中には慰安があり、慰安の中にも治療はある。

「……治療もすばらしい」

「ええ」

 慰安と治療はおたがいが慰安と治療し合う共存関係にある ―― というレトリックめいて響いてしまうかもしれない言葉にも置き換えられるのかもしれませんが、臨床経験に裏付けられた言葉です。

「慰安も治療も両方すばらしく」理想や空論ではないです。「分かちがたい地点にまで最後は行き着くんじゃないかと」

「はあ」

「そんなに痛がられるほど深く刺す必要ももともとないですし」

 症状が位置している深浅はそれぞれ異なり、体毛にあることもあれば、皮膚にあることもあり、肌肉にあることも、脈にあることも、筋にあることもあり……と記しているのは、2200年ほど前の古典で ―― 故曰.病有在毫毛腠理者.有在皮膚者.有在肌肉者.有在脉者.有在筋者.有在骨者.有在髓者.(『黄帝内経』「素問」刺要論第五十)

「浅いハリというのも気持ちいいものですよ」

「今日の私の治療も深く刺していないってことですね?」

「ええ」実際にその古典の記述の通りに、わざわざハリを深く刺さなくたって、とくに内科方面の症状には著効を示すことを実感しています。「深く刺す必要がなかったです」

「なんかジワジワ来るくらいで」

「そうですよね」

「お灸もあたたかいくらいで」

 西暦の前後をとわず、やはりヒトはヒトのままであるということでもあるのかもしれませんが

「靭帯や半月板を損傷しているわけでもなさそうですし」という奥底の神経痛や、外傷性や慢性系統の根の深い症状については、筋肉の深さにまでハリを刺し進めることもあります……「そんなに症状も深くなく」

「まあたしかに歩いたり階段の昇り降りも一応できますから」

 治療のすべてを浅いハリや、刺さずに皮膚にあてるのみで終える治療院も少なからず存在していて

「なるべくならお体の負担・刺激が少なく」わたし個人もそういった治療院や学会で経験を積ませていただいてきたのですが、何よりわたし自身の体がいっとう効果を感じられる方法を当院では採らせてもらっています。「治った方がいいと思いますので」

「治っていくっていうのも、あんがい気持ちいいもんなんですね」

「気持ちよさっていうのも、きっと治っていく過程の一部分なんでしょうね」

 自分自身の体が効果を感じられない治療をお出しできない ―― いささか商人気質もからんでいるような精神のもと、当院はこうしているだけであって

「ご自身の体に合った深浅の治療を」治療する側の体の数だけ、治療院や治療法の数がある ―― というくらいにだけとらえていただければ……「今後もお受けいただければ」

「はい」

「ええ」

「ん」

「ん?」

「いてッ」

 という患者さんの声を、わたし自身があまり耳にしたくないこともあります。

「いたた」と痛がらせることで、筋肉が萎縮し効果が薄らいでしまうように実感していることもありますが……「ちょっとそこは深く刺しましたね? もう大丈夫ですが」

 何よりわたしの体も必要以上に硬直したくはないので。

「……びっくりした」

「先生も?」

「……ええ」

「先生も、唱えながらでもいいと思いますよ」

「……唱えながら? ん?」

「ネンブツー」

「……ネンブツー?」

「ええ、ねんぶつ」

「……ああ、念仏」

「ええ」

「……はは」

「それでは」

「……ハハ」

「また来ますね」

 というようにお帰りになった患者さんの後にも、今日はあと五名の患者さんがいらっしゃいます。

「こんにちは」

「コンニチハー」

 自分の体も慰安していかないとなかなか持たない治療のように、日々年々感じています。

「あれ、先生」

「ハイー」

「そんなカタコトでした?」

 自分の体も治療していかないと、なかなか持たない慰安のように ―― とも、もちろん言い換えることは可能です。

「カタコトー、デシター、カナー……」