case.43  目の自由の不自由

 この地球は7割は水でできているのだそうです。へえ……と感じるこのヒトの体の方も大体そんな割合で、水で出来上がっています。膜や皮膚でパックされていますが、中身はほとんど水です。

「先生、()って何?」

 というご質問をよく受けるのですが ―― いつも答えるのに窮するのですが、この仕事にかかわっていると避けられないご質問のようですので

「ハリ灸とか東洋医学とかって、すぐに気、気、言うじゃないですか?」

「……まあ」大体このあたりからお答えするのがわかりやすいかと。「……ヒトの体は水で……」

「水?」

「……水って何でできていますか?」

 自分の方であまり一人でしゃべり続けると、スピリチュアルになりすぎてしまいそうな〝気〟がするので、きちんと付いてこられるように患者さんの方に答えてもらったりします。

「えっと、何だっけ、ほら」

「……ええ」

「英語で、ほら、理科で、ほら」

「……H₂O……ですか?」

 正確には間に小さな数字を挟んだ英語を結局わたしの口の方が答えてしまっていますが

「そうそう、2つのH・水素と1つのO・酸素でできていますよね、ああ、そっか」と呑み込みの方は早いかたのようです。「つまり気・気体でできていると?」

「……ということですよね?」

 とおたがい〝?〟を投げ合いながら、断定をどことなく嫌い合います。

「ですよね?」

「……よね?」

「ねー」というやりとりそのものが、固体や粘体というより液体状であり「えー……」

 気体状とも言えるかもしれません。

「と、よく〝そんな気がする〟って言うじゃないですか?」

「……ん?」

「なんとなくみたいな、カンみたいな」

「……ああ、はい」

「あれも気で……」すか……と続く前に、それも気ですね、とついわたしの口はおのずと返してしまっています。「つまり?」

「……つまり?」

「どういうことですか?」

「……今のわたしってどう映ります?」

「どうとは?」

「……体調やら、バイタリティーやら……」

「元気なんじゃないですか?」

「……その元〝気〟っていう〝気〟も」

「ああ、〝気〟」

「……ええ、言葉あそびみたくきこえるかもしれませんが、〝気〟が付く言葉って大体そうですよ」

「元〝気〟、天〝気〟、〝気〟象、空〝気〟、〝気〟分」

「……〝気〟配、生〝気〟、色〝気〟……」

「病〝気〟とかもそうですかね?」

「……そうでしょうね、病は気から……」

「ああ」

「……わたしのことをさっき〝元気なんじゃないか?〟とおっしゃってたと思いますが」

「いえ、〝元気じゃないですか?〟とちゃんと〝です〟を付けましたよ」

「……そうですか」

 若干かみ合っていないような雰囲気をかもし出していますが、おなじくカンのいい読者のみなさんの方ももうお気づきかもしれません。

「……結局〝なんとなく〟みたいな」

「〝カンみたいな〟」

「……そうです」

「そうですよね?」

 いくら何でも会話がトントン拍子で進みすぎではないか、と。

「……ですよね?」

「またそうやってきき返してくる声の調子も」

「……ええ」

「なんとなく元気な〝気〟がします」

 というように〝「」〟で分けた形をとっていても、実際はすべて院長の独り言なのではないか、と。

「……根拠があるようで」

「ない」

「……ないようで」

「ある」

 ご明察だと思いますが……

 ベッドの上には本当に患者さんが横たわっている状況にあります。

「たしかにそのヒトが元気か元気じゃないかって、その瞬間になんとなくの直感で分かっちゃったりしますよね? 根拠があるようで、でもなくて、」というように二人分の量の言葉を発している患者さんというのは、本当に存在しています。「根拠がないようで、でもあって、っていうことですよね? あんまり長くジロジロ見つめていると、かえって元気かどうか分からなくなるというか……」

 体の器をはみ出て一体化する〝気〟の状態を活写する目的においては、独り言だった ―― とする一種のオチでもよかったのかもしれませんが……

「……そうですよね?」

「ですよね?」

 今回のcaseのタイトルは〝気〟ではありません……その先にさらに目線を進ませていきます。

「しかし、先生、目を閉じていて、よくそこまで分かりますね」というように、〝気〟よりも先に触れてもいいようなわたしの〝目線〟にようやく触れてきます。「ほとんどの時間、目を閉じていないですか?」

 わたしが治療中は目を閉じている時間が長いことについては、すでに前の前か、前の前の前あたりの回で触れてきている ―― それなりに気心のしれた患者さんです。

「手首の位置もよくわかりますね」

 ハリや灸そのものについてはもちろん、治療前にかぎらず逐一わたしが手首をとる脈診についても、すでに初回や二、三回目の治療時にくわしくたずねられています。

「ほら、今も」左右三本ずつの指で六ヶ所のポイントから五臓六腑の調子を診る脈診について、さらにもう少しくわしく知りたい方は、この〝case〟をお読みいただいた後にでも、〝case.18 脈〟をご覧ください。「いろいろと見えなくなるんじゃ?」

 〝case.18〟の方に今いってしまってから戻ってくると、さらに話が〝見えなくなる〟と思います。

「……見えなくなりますけど」

「はい」

「……見えない方が見えていることだって……」

 皮膚表面にももちろん奥の状態は多少なりとも反映されるわけですが、より正確に診るには、視覚の情報を一度寸断して

「え?」

 トントント・ト・ト・トントンというような脈のリズムに集中したり、においやムードやオーラめいた気体を感じたり

「……〝気〟などはとくに……」

「あ、久しぶりに開いた」さすがにすべてを介助者無しで進めることはできませんから、しばしば開いた目の方も、あえてぼうーと見るようにします。「でも、なんだかぼうーとした目つき」

 輪郭や部位を追いかけずに〝ぼうー〟と見ることが脈診・舌診・切診(触診)に続く〝四診〟の一 ―― 〝望診〟の語源なのかもしれません。

「……ぼうーと」

 いかにぼうーと診るか……手前の体には焦点を合わせずに体表のむこう側にまで目線を進ませることができるか?

「わたしの目の表面? 角膜? あたりと視線が合っていないですよね? 今も」

 望診がうまく出来ないのならハンガンにするか ―― という初耳の単語を用いて、問いのみならず、答えの方も1セットで下さった方がいらっしゃいます。

「今度は目を細めて?」

 半分の〝半〟に眼球の〝眼〟だよ。それともわれわれと同じように見えないように ―― ここで〝ハ〟と〝フ〟を交互に並べるような個性的な笑い声を発されました ―― 完全に目を閉じて見るか。診るか。

「……はい」

 と同時に返した口調と、現在の患者さんに対する返事がちょうどシンクロしましたが、この患者さんの方は晴眼者で……

「なんだか目をわざと不自由にしているみたいというか……」

 診察時の〝気〟を見る・診るイロハをわたしにご教授くださった治療家歴ウン十年の先生は、目の不自由な方です。

「不謹慎な言い方かもしれませんけど」

「……まあこうすることが一番……」

 本当にいろいろと教えていただきましたし、教えていただいたのは人づてにご紹介いただいた数日ですので、すべてを直接教えていただいたわけではないのに、ほとんどすべてを教えてもらった〝気〟になるような余韻をもつ抽象的なお話も多かった気がします。

「でも、目の不自由な方が実際にこういう先生のお仕事には多くないですか?」

 はり師・きゅう師の国家資格と合わせて取得することも少なくない〝あん摩マッサージ指圧師〟ともどものイメージから連想される方も多いでしょうが ―― もともと視覚不自由な方が多くご活躍される場であり、今でもとくに〝あん摩マッサージ指圧師〟の方は職域としてそれなりに保護されています。

「前に診てもらった治療家の人もそうでしたし」

 ちまたに整体やマッサージサロンは乱立しているのに、その施術者の大半があん摩マッサージ指圧師の国家資格をなかなか取得できていないのにも、そのあたりの事情が絡んでいます……取得したくても、まず学校数が少ないのです。

「目の不自由なかたの方が向いている部分があるとか?」

 このあたりの事情については、いずれ今後のcaseでも厚くこの手でペンを持って触れていくことになるのでしょうが、今は薄めで患者さんのお体に触れ続けていくだけにします。

「……あるとか……ないとか……」

「ええ」

「……まあこの声にも元気が出てきましたね」

 その患者の気を診て治さなければ、根本治療にはならない ―― というのは、その先生の格言ではなかったかもしれません。

「……声」というわたしの言葉の方だけが中空に漂っているようです……「……元気」

 初代のそれだったかもしれないように感じた時には、患者さんの体はすでに院をあとにしています。

「……気……」いいだけが残っています。「……キ……き……ki……ii……i……」