case.1  東洋医学の応急処置

 46億年以前に誕生したこの地球という星で生きることのできる状況が整ったからヒトも誕生したのだということを、46億年後の現在のわたしたち自身がきちんと目を向けるならば、以下の 〝 = 〟 もすんなり受け入れられると思います。

 〈 自然界 = 人体 〉

 自然界がよくなれば人体もよくなり、自然界が悪くなれば人体も悪くなる。同時に、人体がよくなれば自然界もよくなり、人体が悪くなれば自然界も悪くなる。

 〈 人体 = 自然界 〉

 でもあるこの東洋医学のベースとなる考えは、同時に、46億年のゆっくりとしたうつろいに合わせて治療効果もゆっくりであるというイメージもつくっているようです。たしかに東洋医学では、悪い一部分だけを手っとり早く除く西洋医学の〝 手術 〟のような治療は行いません。それでも応急処置というものは東洋医学にもあるのです。

 初回である今回は、このことを何度も強調して言いたい。

「おかあさん」

 パラマウント社製の電動ベッドに臥している母親は、息子の呼びかけのたびに目をかすかにあけ直している。

「僕そろそろいくね、また明日くるね」

 母親が入院して以来、息子は朝一番にこの病院に来ることが日課となっていた。

「何かもってきてほしいものある?」

 母親は夕食の支度の最中に倒れ、たまたま息子が家にいたことと、救急車が十五分もかからずに来たことで、一命をとりとめたのである。

「書いてみる?」

 後遺症の有無についてはまだ医師の方から何もきかされていない。

「すごいすごい、書けるじゃん、おかあさん」

 息子がもたせたペンで母親は〝 マメ 〟と書いた。

「……ヌメ?」

〝 マ 〟 の二画目の抑制がきかず大きく左に流れてしまったので、息子は 〝 ヌ 〟 と読んでしまったのである。

「……あぁマメね」

 目線で何度かやりとりをしたのちにようやく 〝 マメ 〟 であることを覚ってからの息子の解釈はスムーズだった。

「ソラマメね」

 母親の好物は豆類の中でもソラマメなのである。

「塩ゆでしたソラマメね、そうだよね、まだ食べれなくても、ソラマメを置いとくだけで元気になるかもしんないしね、種とかでもいいかもね、一緒に育てたりして、ソラマメの種って売ってんのかな、先生にきいてみよっかな、わかった、じゃあ明日もって」

 くるね、ばいばい、という語尾の時点ですでに母親のベッドを遠ざかり、最後に大きく手を振ってから病室をあとにし、病院の玄関そのものもあとにした。

「やばい、もう十五分しかない」

 隣町の学校に通う高校生なのである。

「やばい、やばい」

 を連呼しながら、病院の駐輪場に停めてあった自転車に乗って立ち漕ぎをするうちに

「やば、やば」

 と当初の 〝 やばい 〟 の 〝 い 〟 が風圧で削ぎ落とされ

「やべ、やべ」

 と一旦 〝 ば 〟 が 〝 べ 〟 にかわる変遷をへたのち

「や、や」

 と最後は一音のみの連呼になった。

「や、や」

 立ち漕ぎをしつつも、姿勢は四ツ足のような前傾姿勢になっている。

「や、や」

 前方には季節はずれのギンモクセイの木がすこし低い所で枝葉を差し交わしている。

「や、や」

 その枝葉と緑陰が見通しを悪くしている交差点だった。

「やあー」

〝 や 〟 の一音をひきのばす叫び声をあげてから、右手から法定速度ででてきた乗用車に少年ははねられたのである。

「あぁぁぁ……」

 立ち漕ぎをしつつも前傾姿勢をとっていたために、少年はひかれた瞬間に空中で前転のような格好をとり、背部からアスファルトに落ちる。

「大丈夫ですかッ?」

 受け身をとったことになる。

「大丈夫ですかッ?」

 乗用車から即座にとびでてきた中年男性の方が、頭部に何かの損傷をうけたかのごとく頭を抱えこみながら、どうしょどうしょ、足元もおぼつかずに慌てふためいている。

「……もしもし」

 とりあえず携帯電話から救急車を呼んだものの、どうしょどうしょ、と落ち着くことはない。

「どうしょ、どうしょ、これからどうしょ」

 近所の家々から何事かと人々が集まりはじめたことがさらにその中年男性の動揺をあおり、 〝 どうしょ 〟 がかかる対象も現在から漠とした将来に移ったと思しいあたりで、中年男性は突然意識を失ってその場に倒れた。

「おうしょ、おうしょ、こりかりゃおうしょ……あッ」

 最後のほうはろれつも回らなくなっていた。

「先生ッ!」

 とその人だかりの中にいたわたしを呼ぶ声より先に、わたしはすでに行動にでていた。

「この男性の方を優先します」

 顔面部の軽いひきつりや色合等の所見によりおおまかな判断をする。

「梗塞をおこしている可能性が高いので」

 近所の方々に簡単に説明をしながら白衣のポケットからとりだした寸3 ・ 2番( 長さ約 4cm ・ 太さ 18mm )のハリで刺して、中年男性の両手の小指の先端から血をだす。

「命に関わりますので」

 正確には、小指の爪の内下方と接した薄い皮膚である。

「血がどこかで詰まっているので」

 その小指の先端部には 〝 少衝ショウショウ 〟 という名前の重要なツボがあるのです。

「非常口をつくって、全体に血流をつくってやるのです」

 心臓の 〝 心 〟 とつながっている 〝 心経 〟 の末端のツボです。

「そちらの少年は一時的に気を失っているだけでしょうから」

 細胞が壊死する前に 〝 少衝 〟 から血をだしてやれば、命はもちろん、後遺症等の予後にも良いことが多いのです。

「こちらの男性に応急処置をほどこしました」

 必要に応じて、ほかの手足の指の先端部からも血をだすことがあります。

「これが東洋医学の応急処置です」

 細いハリなら止血もすぐにやみ、すくなくとも今後に悪影響をもたらすことはありません。

「東洋医学にも応急処置はあるのです」

 東洋医学にも応急処置はあるのです。

「あるのです」

 東洋医学にも応急処置はあるのだということを、わたしは近所の方々にも言いました。

「46億年以前に誕生したこの地球という星で生きることのできる状況が整ったからヒトも誕生したのだということを、46億年後の現在のわたしたち自身がきちんと目を向けるならば、以下の 〝 = 〟 もすんなり受け入れられると思います。

〈 自然界 = 人体 〉

 自然界がよくなれば人体もよくなり、自然界が悪くなれば人体もわ……」

 近所の一人がわたしの講釈を途中で止めたのである。

「松波先生、目をあけましたよッ」

 目をあけたことに加えて、顔色ももとの血色に戻りつつあるものの、まだ自力で立てはしないようである。

「一命はとりとめましたが、救急車の迎えを待ちましょう」

 あくまで応急処置なので、精密検査等は病院でしてもらうべきなのです。

「……けが人は二人でしたか?」

 やってきた救急車の救命士にも、わたしが事情を説明しました。

「……そうでしたか、ご苦労様でした」

 ちなみに今回の処置は血が滞る 〝 実 〟 タイプのもので、逆に血の不足といった 〝 虚 〟 タイプのものには内くるぶしとアキレス腱の間の 〝 太渓タイケイ 〟 のツボがいいのだと、先代から教えられています。

「……それで、すいません、あなたは?」

 わたしの素性もたずねます。

「そこの治療院のものです」

 救急事態なので、わたしの方も細かい説明ははしょることにしました。

「……治療院?」

 コンマ単位の速度でうなずき返す。

「はい」

「……ということは、院長とかで?」

「三代目ですが」

「……はぁ」

 あとで詳しい事情をきくかもしれないという由で、治療院の住所もたずねてきます。

「すぐそこのハリとお灸の治療院です」

 念のためわたしは指でもさし示すことにしました

「ほら、季節はずれのギンモクセイの木がすこし低い所で枝葉を差し交わしている」