case.26 ユ~レ~
「最近なんだか体がフラフラするんですよね~」という口調じたいがすでにフラフラしていて、一音一音の輪郭がずいぶんゆるんでいるようにきこえています。「クラクラやフワフワもするんですよね~」
〝フラフラ〟は〝クラクラ〟でも〝フワフワ〟でもいいように、一語一語の言葉の境界も甘くなっています。
「でも、本当はもうフラフラ~もクラクラ~もフワフワ~も感じなくなっているかも~」というようにあっけなく自身の前言も撤回しています。「どこまでが自分の体なのか~」
「……どこまでが」
「自分の体が自分じゃないような~」
「……自分じゃないような」
「自分の体そのものがユーレイみたく~」
わたしを驚かせたかったのかもしれませんが、すでにこの単語の輪郭はうっすら見えてはいました。
「……ユーレイ」
「ユーレイをちらちら見ることも出てきて~」
「……ええ」
「ユ~レ~」という声そのものが幽霊にきこえてくるくらいです。「本当に自分はとり憑かれているんじゃないかと~」
「とり憑かれている?」
一回ではききとれなかったので、わざわざここで記す必要のないくらい細々とした、ん? はい? え? ああ、はぁ? まあ、そう……というあんばいのやりとりを割愛して、サクッと一文で説明すると、常に肩が重くなっている気がするのだそうです。
「気……はい」
触診してみますが、凝っているとは言いがたい状態です。
「むしろやわらかすぎかもしれませんね」と率直な感想をはっきりとした口調であえて伝えます。「曇り続きの重い外の気もそのまま背負ってしまっているのかもしれませんね」
「もしかしたら~……自分が~……本当に~……ユ~レ~……みたく~……なっている~……んじゃない~……かと~……」
というように伝えていたのでしょう言葉に対する相づちは安易には打たずに、触診して得た経穴(ツボ)の方にこそハリを打っていきます。
「視界の方も~」
「わざと少しチクチクさせますね」
「なんだか自分の目じゃないような~……あッ」という言葉が途中で漏れます。「おッ……うッ……」
音のようなものですが、いくぶん輪郭をとり戻してきているでしょうか。
「うー……今だってー」
「〝散鍼〟という名前の手技です」
「うっすらとー」
「わざと少しチクチク散らすように刺して、皮膚の存在を自覚してもらいます」
「先生のむこうにー」
「体の内と外をきちんと隔ててもらいます……」
「もともとは見るタイプの人間じゃなかったんですがー」
「……見るタイプ」
「ユ~レーをー」
「……ユ~レー」
ユ~レーという存在についてはわたし個人も疑ってはおらず――実際にそういったいわく付きの場所で二度三度目の当たりにしたこともあるのですが、この話はけっこう長くなりそうなのショートショートには不向きかと……
「……見えないタイプのヒトだったわけですね」
いずれにしても存在を疑ってはおらず、もともと見えるタイプのヒトと、見えないタイプのヒトにまずは分けることができるのでしょう。
「やっと目の方も自分のものに戻ってきた気がしますぅ」
先天的に得られている感覚と、後天的な感覚とも言い換えられるかもしれません。
「だんだんはっきり見えてきましたぁ」
〝霊感〟という言い方もできるのかもしれないその生まれつきの感覚については、わたし自身もよく分かっていないのですが、後天的な感覚については、その時々の身体状況にかなり左右されているのでは、と。
「そこにいらっしゃったんですねぇ」フラフラともクラクラともフワフワとも左右されて……「ずっとぼやけて幻のように見えていたりぃ、幻のように聴こえていたんですがぁ」
という幻視・幻聴の類も似たようなものなのでしょう。
「ご隠居さんのようにうっすらとぉ」
身体の輪郭がゆるんでいる――〝泥のように疲れている〟などという表現もありますが、皮膚や筋肉が粘体状・液体状にやわらかくなってしまっている状況下に起こりやすいように診受けられています。
「あぁ、そんなに近くにいらっしていたんですねぇ」
体の内外が交通し合っている状況下とも言えるかもしれません。

「うつ伏せが長かったのでぇ、気づきませんでしたがぁ」
ご高齢の方がよく幻視や幻聴にとらわれるようになるのも、その文脈である程度理解できるのでは、と。
「先生の方が治療されていたんですねぇ?」
体力的に衰えてきたご高齢の方のように、わたし自身も治療後は疲れはててしまっています……
「初代の? ですよね」
初代の?
「この治療院をおつくりになった」
この治療院をおつくりに……というように、患者さんの言葉を反復するだけでやっとになっています。
「三代目の方ではなく」本日最後の患者さんで、今日は急患も多く、休憩もほとんどとれていませんでした……「初代の先生の方に治療してもらっていたとは」
すでに外は真っ暗なようで、このまま夜闇を床にして眠りこけてしまいたいくらいです……
「光栄です」〝夜闇を床にして眠りこけてしまいたい〟……わたしはいったい何を言っているのでしょう?「ああ、そうなんですか、学校の教員をご退職されてから」
たしかに初代の写真はホームページ上に載せていましたが……
「鍼灸あん摩マッサージ指圧師の免許をわざわざお取りになって?」ということまで載せていたでしょうか?「ああ、学校の教員をされながら鍼灸学校の夜間部に通われていたんですか」
わたしが生まれる半年前に亡くなられた初代・祖父であり、実際に目にしたことはありませんが……
「三代目にそっくりで」写真によるとわたしに似ているようにたしかに自分でも思います……「同じ白衣ということもありますが……あれ?」
わたしの背後にむかってしゃべっているほどの声量になっていて……
「三代目はどこに?」
ゆるみきっているのかもしれないわたしの角膜を抜けて、後頭部を見つめ続けられているようでもあります……
「今さっきまでそこにいたと思うのですが……トイレにでも?」
おそらくユーレイの側にもタイプが二つはあるのでしょう。
「今度は三代目の方がご隠居さんに?」輪郭がゆるみきったユ~レ~と……「まあここだけの話、三代目はまだまだゆるそうで」
わたしがかつて二度三度目のあたりにした――こちらの身体状況に関係なくどんな時にでも見えてしまうくらいはっきりとした強い念をもった幽霊……
「初代の方が強い信念を」
患者さんがまだ完全にお帰りになっているわけではないのに、すでに心身ともにゆるみだしている三代目に対しての叱咤や激励でもあるのかもしれません。
「では御代の方を……あれッ?」
お帰りになった後にでも、ホームページの方を久しぶりに確認してみようと思います……
「そんなに安かったでしたっけッ? 載っていた金額はもっと高かったようなッ」