case.38  ひとりがいいです……

 当院では一時間にお一人のお体のみを診ることにしていて、治療時間そのものは40~50分程度で終わることが多いですが、長引くこともままございますので、患者さんと患者さんがカーテンを挟んで鉢合わせになることがございます。

「ちょっと早く来すぎちゃいましたかね……」という小声が玄関のすき間風に乗ってきこえてきます。「17時から予約した者ですが……」

 ドアを完全に閉めきった後も小声にきこえるので、体質的なものかもしれません。

「大丈夫ですよ、こちらのベッドにお入り頂いて、お待ちになっていてください」

 という案内に対して、こういう御時世もあるのでしょう……〝密を避ける〟ために外で待たれる方も少なくないのですが ―― だから一時間にお一人という予約形態をより徹底していることもあるのですが

「じゃ、まっときます」という声とともに小さい足音を立てて、治療中とは反対側のベッドに進んでいきます。「ああ、そうだ、五号車じゃなくて六号車でもよかったんだ、エスカレーターじゃなくて階段でよかったんだ、コンビニに立ち寄って立ち読みしてきても……いや、立ち読みはまずいか」

 と何やら独りごちながら、ベッドに居住まいを正して腰かけているみたいです。

「はい、今日は以上です」と前の患者さんの治療を終えた足で、隣のベッドに入っていきます。「今日はどういった症状で?」

 この後に何かご用があるのかもしれない……とも感じさせるような独り言に移りだしていることもあって、前の患者さんがまだ出て来ていない ―― 会計の済んでいない段階で問診を始めようとしたのですが

「あとで……でいいですか?」

 と急に口数が少なくなります。

「ひとりがいいです……」

 隣の患者にきかれたくない症状なのでしょう……めずらしいことではないので、わかりました……のみをわたしも小声で返して、隣の患者さんの会計と次回のご予約を承ってから、今一度入り直しますが、なかなか切り出してくれません。

「まあ何があるだろ……えっと」今から考え始めるようにいくつかの症状を絞り出してきます。「ちょっと肩コリがあるとか、ちょっと足が冷えるとか、ちょっと目が疲れるとか、イーティーとか、ちょっと腰も痛むとか、ちょっと胃もたれがするとか……」

 間によくききとれないものが一つだけ挟まっていました。

「イーティー?」

「イーティー?」と逆にきき返してきます。「あぁ、E・T」

 独り言もふくめて、地球外生命体のようにもそこはかとなく感じさせるここまでの不審な所作もあったのかもしれませんが

「E・Tじゃなくて、D」わざとそのようにふるまっていたのかもしれません。「E……D」

 あまり深刻には告げたくない患者さんの心理だったように感じ直したわたしの方が、反省しないといけないでしょう。

「……ああ、すいません」イニシャルで告げてくる患者さんが少ないこともピンと来なかった原因です。「……わかりました」

 匿名的な意味合いもこのイニシャルには含まれているように感じ直しながら、現病歴について小声のままたずねていきます。

「病院にはまだかかったことがないんですが、ハリ灸が効いたって話もちらほらきいていて」

「……ええ」当院でも快方に向かった患者さんは多くいらっしゃいます。「……けっこう時間や回数がかかる人も少なくないですが」

 なるべく誇張はしないように、患者さんの発言の合間に相の手さながら入れていきます。

「もともとっちゃあもともとなんですが……」

「……もともと……生まれつき……」

「経験が遅いってこともあるんですが、恋人が一応できた去年くらいですかね、とくに気になるようになったのは……」

「でもまだ病院やクリニックの方には行ったことがない」ここでもう一度確認しておきます。「この鍼灸院が初めてだと」

「いや、病院には行ったことがありますよ」

「ん?」

「カゼとか、健康診断とか、ああ、母親が右の足首を骨折して入院した時にも」

 こういう所ももしかしたら症状には関係しているのかもしれません。

「はい、わかります」行ったことはあるんですね……とさらにボリュームを落とした小声を継ぎながら、少なくとも自分の声ではかき消されないように患者さんの脈をとって強弱やリズムに集中します。「……ええ」

「脈で何がわかるんですか?」

「……〝ちょっと冷えがある〟とさっきちらっとおっしゃってましたが」正確には脈に届く前の皮膚やその手前の産毛、漂う空気の温度でわかりました。「……〝ちょっと〟じゃないんじゃないですか?」

「はあ」

「〝かなり〟じゃないですか?」

「まあそこらへんの表現はべつに……」と〝冷え〟については内実関心がない口調になっていますが、そういった性機能の諸症状において冷えは大敵です。「それよりも……」

 当院で診療してきた患者さんの多くには、男性としてはかなり程度の重い冷えの症状がおありでした。

「ハリ灸じたい初めてということですし、なるべく軽い刺激で効果が出るのがお体にも負担が少ないので」とりわけ繊細な体をお持ちの方が多い印象です。「浅めのハリとあまり熱くないお灸で今日は治療していきますね」

 日に当たりづらい〝陽〟とは反対の〝陰〟側のエネルギーを補うような治療で、足の内側や手の内側、もちろんおへそ周辺や反対の腰にも治療を加えていきます。

「腰もずいぶん冷えていますね」〝腰が痛む〟というのも〝ちょっと〟ではなさそうです。「インナーマッスルの腸腰筋も血流が……」

「インナー?」

「ああ……深層の筋肉のことです」

 筋肉の起始と停止箇所にも浅めに治療を加えて、今日の治療はおしまいです……この程度であっても、もしかしたら今晩はだるさが出るかもしれません。

「今晩についてはなるべく安静に」

「それって皮肉ですか?」という言葉ほどの繊細さは口元にはありません。「はは」

 ゆるんだ印象の口元だけを見ながら、何となく他の部位は見ないように注意事項を告げていきます。

「水分もこまめによくお摂りになって」助言も告げていきます。「病院やクリニックの方にもいずれ一度いってみてもいいかもしれません」

「専門のクリニック?」

「泌尿器系やED外来やメンズクリニックといった名称のクリニックも最近はあるかと」また少し口元が緊張してきたようですので、わたしみずから発言を引きとります。「もちろんこちらでもやれる限りの治療をしていきます」

「……ありがとうござ……」

「やれる限りの治療を、状況を見ながら進めていきますが」

「……はい」

「局所の方にもハリを打っていくことになるかもしれませんが」当院では現在おこなっていませんが、鼠径部や骨盤・尾骶骨周辺に打った長く太いハリの柄からさらに電気を流して強い電動を伝える荒療治もあるにはあります……「病院やクリニックの方で処方されることになるのかもしれない局所の血管を広げるためのPDE5阻害薬という名前の薬や、バイア……」まで出かけましたが、今回はまだ刺激が強いかもしれないので、発言の方もこのあたりで止めておきます。「……そういった薬でも効果があまり出ないお体もある中で、ハリ灸できちんと体を整えることで、少量の薬できちんと効くように」

 医療の東西にこだわるより、結果として患者さんの症状が改善されればいいわけです。

「……ええ」

 肯定というより、一種の感嘆のようにも響きます。

「……すごいですね」結果としてわたしの方が長広舌をふるってしまっていたのでしょう……「……エネルギーといいますか……バイタリティー……といいますか……」

 高い山を望むような視線をわたしに投げかけてきていますが、今ではこんな感じです。

「いやあ~、暑いですね~、まだ春先っていうのが信じられないくらい~、暑いですよ~、ちょっと歩いてきただけで~、ほらあ~、先生~、走ってきたみたいに~」今日も予約時間の十五分ほど前に来て、先の患者さんと鉢合わせになってしまっていますが、まあよくしゃべります……「でも~、不思議と~、汗はあまり~、出てこないんですよね~、ダラダラ~、とは出てこなくて~、毛穴がちゃんと~、しまっているというか~」

 六回目となる治療にもちろん馴れも生じてきているのでしょうが、声にも力強さや伸びが出てきていますし

「……こういうご時世ですので、少しお静かに」

 と注意せざるをえないわたしの言葉にたいしても、冷静かつ

「ああ~、隣に~、まだ患者さん~、いらしてたんですね~、わたくし~、としたことが~、申し訳ない~、逆に注意してくださって~、ありがとうございます~」という堪え性をもって返答してきています……「ああ~、隣の患者さん~、お帰りになりましたか~、もっと長く居ていただいても~、よかったのに~、え~と~、先生~、けっして急いでいるわけではないのですが~、次回について~、お願いがあり~」

「……ええ」

「この治療院さんは~、ベッドが二台あるんですよね~?」

「……はい」

「今日~、二人分の予約を~、とっていいですか~?」 

「……二人分?」

「なんだか~、彼女の方も~、症状があるみたいなんで~」

「……なるほど」

「いやあ~、まあ大丈夫でしょ~、先生~、ドンと構えちゃいましょ~、ドンと~~」

 間のカーテンを括れば、当院では二人同時に治療することも可能となっております。