case.39  信者

 ここまでのcaseをご覧いただければだいたいお分かりかもしれませんが、当院の院長であるわたしそのものは〝ゴッドハンド〟ではありません。

「あっちのツボを使えばよかったかな」

 というように〝ゴッド〟とは到底思えないような発言もしますし

「ちょっとしくったかな」

 けっこう頻繁にしていますし

「まあしょうがない」

 という口にかぎらず

《ひとりでに動いたんだから》

 便宜的に〝《 》〟という記号を使わせていただく頭の方でも似たようなことを考えたりしています。

(なんでこっちのツボの方を使っちゃったんだろう?)

 という心の方でだって……

【治ったってことは、結果的には合っていたってことだな……】

 ことばを表すことのできる部位 ―― 口や頭や心といった部位以外の……足や腹や背中や目や耳や鼻といった部位の方でも、平々凡々としたことばを表しているように感じますが

「すごいな……」黙々と治療を進めていっているこの〝手〟はたしかにすごいと思います。《すごいすごい》

 ほかの部位たちも礼賛するくらいの手さばきであり、本当にこれは自分の手なのか? 疑念が湧いてくるくらいのものですが

(本当になんでこのツボの方を使ったんだろう……この手は)

 いろいろな先生方のご指導や絶え間ない訓練もあっての過程をへたものではあります。

【それにしてもすごい】

 という足や膝の方からきこえてくることばがありますが、もしかしたらこのことばは完全な他人の声かもしれません。

「本当にすごいですね」ベッドにうつ伏せになりながら、お顔の部分だけ空いている孔からことばを継いできています……「すごい、すごい」

 ペインクリニックをはじめカイロプラクティックや整体や他の鍼灸院にも行ったそうですが、なかなか改善しなかった腰・股関節痛の患者さんで

「ほら、全然痛くなくなっています!」

 うつ伏せから起き上がった時には、このようなことばも掛けてくださいますが、《まあ、相性とかもあるんでしょう》くらいに自分の頭の方では考えておくことにします。

「受けている時から、〝これは治るぞ〟って、頭の中でわかってましたから」

 ご自身の治療効果を予見できていたこの患者さんの方が〝ゴッド〟に近いように感じますが

「先生って、ゴッドですね!」とあっけなくその位を譲り渡すようにおっしゃいます。「ゴッドだ、ゴッド!」

 多少オーバーに言う性格なのか、はたまた長年患っていたという痛みが(一時的な可能性も否定できませんが……)なくなったことから来る一種の躁状態に入っているのか……

「ゴッドだ、ゴッド!」

「……いや、いや」

「またまた謙遜なさって」

「……いや、いや」本心です。(……いや、いや)

「ゴッドハンド!」

「……まあたしかにハンドの方だけは、一番わたしの体の中でゴッドに近いかもしれませんが」

 というそれなりに丁寧に答えたつもりのことばの方は、もしかしたら口からは出ていなかったかもしれません。

「ほかの患者とかにだってよく言われるでしょ?」と何もきこえなかったかのように、患者さんはことばを口で進めていっています。「ゴッドハンドって!」

「……んー」

 たしかに言われることはあるかと思いますが、〝ゴッドハンド〟という単語じたいがこの業界でキャッチフレーズ化していて気軽に使えるようになっていると感じますし

「……まあ」一種の社交辞令のように受けとって、あまり真に受けないようにしているということもあります。「……どうでしょう」

 そもそも〝ゴッドハンド〟という存在から遠ざかろうとしている意識も体のどこか奥底にはあるのかもしれません……

(ゴッドにはなりたくない)

 という意識のさらに奥に眠っているような意識のことばまで明るみに出そうと……このノートの白の明るみに登場させようと、この〝手〟が今度は文章の方をひとりでに書き続けていきます……

《え……どこまで書き進んでいくんですか……》

 今回のcaseでは、途中のわたし自身の発言にあった〝「……まあたしかにハンドの方だけは、一番わたしの体の中でゴッドに近いかもしれませんが」〟あたりの結論までしか書くつもりはなかったはずですが……

《ゴッドになったら危ない……》

 ここまで書こうとしていなかったはずです……

《教祖のように扱われてしまったら》

 手の方はまだまだ止まってくれなさそうです……

 そんなに遠くないはずの以前のcaseにおいて〝最近メディアでとり上げられる機会が増えているらしい〟ハリ灸の現状について書いていた記憶が体のどこかにありますが、翻してみると、ハリ灸ひいては東洋医学が不遇をかこっていた時期があったということです。

(不遇の時期……)

 長い歴史上でかんがみれば、数百年以上前の明治維新の欧米化の時期に下火になったり、こんな悠長な医学は戦場では使えないお上の判断により低迷していた戦時中があったのですが

(あとはあの……)直近ではあの宗教に関連した一件がありました。(……宗教)

 みなさんもご存知のかたはいらっしゃるのではないでしょうか?

(あの教祖は鍼灸師の免許も持っていて)

 さすがに実名の方は手の方でもこの通り触れないまま進んでいくようですが……

(東洋医学も利用して集めていたから)

 というような内情については、またハリさながら、あるいは西洋医学側のメスも用いるように切り込んでいっている印象です……

(東洋医学=危ないイメージにもつながっていって)

 こわいイメージにもつながっていって……と、もう〝( )〟等の記号も関係ないように、こちらにも切り込んできています……

(テレビ等の公共のメディアではなかなか放送されづらくなって)

 知り合いの知り合いの ―― と少し距離はあるのですが、この国の放送協会のお勤めの方もこうおっしゃっていたそうです……

(鍼灸も含めて東洋医学は興味深いから、いつも特集の企画が良い所まではいくんだけれど、きまって最後の審査でポシャる)

 ポシャる……

(視聴者からのクレームも容易に想定されるし)

 東洋医学の布教活動に使われた過去……

(だから一段落するまでは)

 一段落……

(教祖に法の裁きが与えられ)

 与えられ

(刑が執行されたことを、一応の区切り、一段落として)

 刑が執行……

(だから、ここ最近になって、ようやく東洋医学が)

 テレビ等でも〝家庭の医学〟とした緩めのテーマから特集を組まれ……

「ああ、東洋医学っていいもんなんですね」というような患者さんも増えてきているのでしょう……「お金はここに置いていきますね」

 という治療代に直接触れるのも、もちろんこの手です……異存はございません。

「ちょっとボーっとするかな」

 という患者さんの目の前に〝治療後の注意事項〟のプリントをさっとさし出していっているこの手こそ、ゴッドでありながら、また同時に教祖的存在であり

「ん? 何です?」

 危なさやこわさを感じたりもしますが……

「……えっと」少なくともこの治療院においては、なかなか逆らえる存在は現れません。「……治療後はよくお水をおとり下さい」

「ああ、治療後の」

「……ええ」

「注意……お水って何でもいいんですか?」

「……いいですよ」

「前の治療院ではミネラルウォーターも売ってたけど」

「……ここには」と断りを入れようとする口をも引っ張るように、洗面台の蛇口の方に手が勝手に進んでいこうとしますが「……水道水……いや」

「うさん臭くて買わなかったけど」

「……早く」

「ここのは買わせてもらっおっかな、ゴッドの水」

「……早くお帰りになって、今日はゆっくりお休みになる方が……」

「ん? ああ」

「……よろしいかと」

「このプリントにも、水分補給より上に書いてありますね」

「……早く」

「〝治療後は無理せずきちんと休息をとりなさい〟って命令口調で」