case.18  脈

 〝 完全予約制 〟 と打つと、なんだか敷居の高そうなお店と受けとめられがちですが、実際はそんなことはありません。

「今ハリを刺してくんねぇ?」

 と突然院のドアを開けてたずねてくる人もたまにおります……

「今ほかに誰も患者がいねぇんならよぉ」

 という言葉も一応付け足してきますが、玄関のタイルの目地を端から端まで見終えているようでもあります。

「ハダシで来ている患者でもいるんなら別だがよぉ」靴は一足も今は置いてありません……「ユーレイでも来ているんなら」

 と皮肉ぎみにも言ってきますが

「……えーと」どなたでしたでしょうか?「……そのぅ」

 見覚えは何となくあるので、初めての患者さんではないのでしょう。

「そのぅ?」

「……まぁ」

「まぁ? いいってことかぁ?」

「……ええ……まぁ……」

 ベッドの位置も把握しているようで、そのままカーテンをかき分けてあお向けになります。

「ほれ、まずは舌をみるんだろぉ?」

 と治療の順番も心得ているようです……いったいどなたでしたでしょうか?

「……うーんー」

 と思い出そうとしながら、手相のようにも積極的に出してくる舌の状態を視認します。

「……若干むくんでますかね」何ていうことのない舌の状態です。ありがちな舌と言ってもいいでしょう。「……両脇に歯形がうっすらと入っていますから」

「ほぉん」

「……ほぉん?」

「ほぉん、つって、納得しただけじゃあ」

 〝 ほお 〟 や 〝 ほう 〟 というような反応の意味だったのでしょう。

「……はい」

「酒の飲みすぎかんなぁ」

 入室してきた時から続いているこの特徴的な口調? なまり? にも、そこはかとなく聞き覚えがあるのですが

「……そうかもしれませんね」

 名前は依然として出てきていません……

「……えーと」

「なんだぁ?」

「……次は」

「ハラだろ?」

「……まぁ」舌の次にどこを診るかはその患者さんの状態によっても異なってくるのですが……「……そうですね」

 前回診た時は、そのような順番だったのでしょう。

「……うーんー」

 おなかの方もこれといって特徴的な所見はありません。

「……うーんー」

 それでも少し間をとり続けて、名前をそろそろ思い起こそうとします。

「……うー」前にもお話しした通り、当院では保険証は提示してもらう必要はなく、診察券等の氏名が明記されている物も、真意は今となってはわかりませんが、初代の頃より一度も存在しておりません。「……んー」

 単に診察券のような物を出すのが面倒だっただけかもしれませんし、患者さんにとっても財布がかさばるだけの面倒な物なのかもしれませんし……

「……うー」

 そもそも 〝 氏名 〟 という物自体がただかさばるだけの面倒な物のようにも感じられてきた所で、ようやくおなかから手を離します。

「……んー……まぁ若干丹田、下腹の方の力が弱いくらいですかね」いわばおなかの方もありきたりな所見です。「……肋骨付近の方が若干こわばっていて」

「ほぉん」

「……緊張している状態ですかね」

「ほぉん」

「……横隔膜がおそらくつっぱっていて」

「ほぉん」

「……呼吸も浅くなっている状態ですかね」

「ほぉん」という反応の声も、うわべだけのただ浅い所を漂っているようにきこえてきた時には、この患者さんの手首をわたしはとっています……「ほぉん、今度は脈かぁよぉ」

「……そうです」

「なんかおかしいとこあっかぁよぉ?」

「……まぁ……いや……どう……ですかね……」とあえて尻きれにして、脈に集中します。「……うーんー」

 という声は、今度はまやかしなどではありません。

「……んー」

 これはわたし個人だけの見解ではないと思うのですが、脈を診断するのが一番難しいのです。

「……あぁ」

 それだけ情報がたくさん脈にはあるとも言えます。

「……ミヨシさんじゃないですか」

「おぅ」

「……どうもしばらく」

「誰だと思っとっちゃったんじゃあよぉ、オレをよぉ?」

「……いえ、ずいぶん久しぶりで、なんだかお姿の方も……」肥って、髪も薄くなった ―― とまでは口にはしませんでしたが、たしかシゲ何とかだったと思う下のお名前どころか、ミヨシという名字を受け持つ以前から定まっている個こそが、脈であるとは言えます。「……あいかわらずの脈ですね」

「あいかわらぁず?」

「……ええ」キャラクターとも言い換えていいでしょうこの 〝 個 〟 も、微妙な所で他人の個ともかぶっていたりすることが多いのですが、この方の場合はひときわ浮いています。「……あいかわらぁず」

「そっかぁよぉ」

 脈自体も浮いていて、こちらの指を少し圧しこむと、すぐに触れられなくなる脈です。

「……ええ」と自分の方も軽いタッチと音量で返事を続けていきます。「……そうですねぇ」

「どんなぁミャークゥなんだぁよぉ?」

「……ミャー?」

「おぉい、ネコじゃねぇぞぉ、わしゃあ」

 ゆったりとした脈のリズムでありながら、呼吸自体はやはり浅いようで、手首の皮膚のすぐ下をアプアプしています……

「ミャークだぁ、ミャーク」

 そのアプアプにはそれほどの凸凹がないので、この人は呼吸をしていないんじゃないか……と診落としてしまいそうになるくらいの繊細な脈状です。

「……あぁ、脈……えーと……」

 脈の種類には28種類があるとされ、《 浮・沈・遅・数・滑・濇・虚・実・長・短・洪・微・緊・緩・弦・芤・革・牢・濡・弱・散・細・伏・動・促・結・代・疾 》と記述のある古典の通りにまで正確に分別できているわけではありませんが

「……うーんー……」と時間をかけて集中し続けていれば、おのずと 〝 個 〟 が見えて/診えてきます……「……んー……ん?」

 このように診断にすら時間が割かれるので、 〝 完全予約制 〟 であることは、三代目のわたしもよくわかっているつもりです。

「ん?」

「……あのぅ」

「なぁーんだぁ?」

「……今って」少し言い方を考えます。「……疲れていたりします?」

 と結局無難な所からきりだします。

「疲れ?」

「……ええ、まぁ……」

「そりゃあ疲れとるんじゃねぇのぅ」

 と、やや他人事にきこえます。

「……疲れすぎて、もう峠をこえて」

「ほぉ」

「……感じなくなるくらいとかですか?」

 おそらくこの疲れ方にこそ、このかたの個があるのでしょう。

「かもなぁ」

「……もうストレスも怒りも感じられなくなるくらいになってきていて」

 という診立てには、左右合わせて六つの手首の位置の脈のバランスも含まれています。

「……ストレスや怒りを感じすぎて」

「どうだぁけぇなぁ」

「……マヒするくらいになってきてしまっていて……」

 治療院に来ること自体が一つの症状の表れとも言えるのでしょうから、わたしがこれまで数回診てきているはずのこのミヨシさんの脈というのも、彼本来の日常的な脈ではないのかもしれません。

「まぁ感じることはねぇかぁなぁ」

「……ですよね」

「マヒしてんのも、感じねぇけんどぉ」

 疲れがたまりにたまりきった後に、 〝 肝 〟 の脈が落ちこんでいって、骨のきわの底の方でじっと動かなくなる。

「……なるほど」

 六つ全体の脈の状況としては、ごく浅い所をゆったりとアプアプしているのですが、唯一左手首の上から2番目の位置の脈だけは底にしか気配を感じられなくなっていくのが、このミヨシさんの脈の個となります。

「まぁもぉよぉなーんもぉやる気がしねぇくぅてぇ」

 一足先に溺れて沈んでいってしまったようでもありますので……

「なーんもぉ感じんのもぉめんどぉくぅせぇ~」

 まずはこの肝の脈を引き上げる治療からしていきます。

「……血の動きを最もコントロールしている場所が疲れ果てているようなので」

「ふぅ~んぅ」

「……ここが弱まってくると、忘れっぽくなったり」というような性質が 〝 肝 〟 にはあるのです。「…… 〝 完全予約制 〟 ということも忘れてしまったり」

 とも、小声でさりげなくハリのようにチクリと言っておきます。

「完全よぉ……」

「……いえ、何でもありません、気にし……」

「そこはどこなんだぁ?」

「……そこ? あぁ、肝です」

「カァン?」

「……肝臓の肝です」

「あぁ、カンゾー」と飲み友達のようにも言ってきますが、人名ではもちろんありません。「のアタイが高ぇとは医者にも言われてんなぁ」

「……そうですか」

 けっして西洋医学や解剖学における 〝 肝臓 〟 をそのまま意味しているわけではないので、肝数値とまではわたしの口からは言いません。

「関係あんだぁろぉ?」

「……あるのかもしれませんね」

 というくらいの反応しかしません。

「やっぱぁカンゾーのせいかぁ」

「……少しチクッとするかもしれません」

 肝の所の脈だけをまずは引き上げることのできる経絡上の経穴ツボにハリをそっと釣り竿のように置いて、底の脈が食いついて引き上がってくるのを待ってから

「おぉ」全体にもアプローチをかけていきます。「なんかぁゾワァゾワしてきたぁ」

「……ええ」

「おぅ」

「……あれ?」

「なんだぁ、どうしたぁ?」

「……ハセガワさん」とまた別の人の脈の個と錯覚するようなプロセスをへてから、全体としても脈の位置が安定してきました。「……いや、タカハシさん……いえ、すいません」

「あ?」

「……人ちがいです」

 いざハリとお灸を用いて治療してみると、それほど個の強い脈ではなかったようにも感じられてきます……

「名前まちがえるなよッ」

 というように、口調にもいくぶんメリハリが出てきて、ドスがきいてきたようにきこえます。

「ミヨシだっけぇ」

 さすがに出自とおぼしい訛りまでは抜けていきませんが、音そのものの方は齢に応じた低さで安定してきておりますが……

「わしゃ、ミヨシ・ヒロシゲ」

 きっとまた個を見せに来るのでしょう……

「……ヒロシゲ」

「そうだよッ、忘れんじゃねっぞ、いくら先生でもよ」

「……はい」

「しっかし」

「……はい」

「今日は雨すげぇな」

「……ええ、台風も」

「んよっ」

「……近づいているみたいですね」

「どしゃ降りだ」

「……ええ」

 その時にはまた氏名の代わりをしてくれるのでしょうから、こちらとしても、まぁ、助かることなのかもしれません。

「この後もきっと今日は来ねぇんじゃねっか、客は」

「……客……まぁ」

「また疲れきったら、来るわ」

「……ミヨシさんだと」

「あ?」

「……わかる前くらいに来ていただいた方が……」

 玄関の外の雨足の音が、足音そのもののようにもこだましてきます……

「何言ってんだ、先生?」

「……ミヨシさんご本人のお体にとっては良いと思いますよ」

 自分でも何を言ってるのか、よくわからなくなってきていますから、あとで自分の脈も診てみようと思います……自分自身も 〝 完全予約制 〟 を忘れた患者のように感じられてきます……