case.5 点・灸
もう四、五年前になるでしょうか。慢性的な腰痛をかかえて来院されていた方の中に大学の四年生になる女性がいて、きっと就職活動などのストレスも症状を悪化させているように見越して、 〝 べつに急いで将来をきめることなんてないさ 〟 などと人生の先輩ヅラしてアドバイスめいた言葉を送っていたのですが
「ようこそ」実は大学に入学する前から就職先は決まっていた……というオチのつく何とも気恥ずかしい思い出があります。「いらっしゃいまし……あぁ、先生」
開館八十年になるという旅館のおかみの座にすぐについた後も、こうしてわたしに往診を依頼してくれるのです。
「どうぞこちらのお部屋に」
と客のようにも扱って一泊させてくれるので、自分にとっても半年に一度ほどの癒しの場になっています。
「……どうも」
本来は自分の治療院は往診は行っておらず、定休日を利用して来ているのです。
「お風呂は一階の……」とすでにこれまで何度も説明してくれている温泉に早速つかり、少し仮眠をとったところで、部屋の鶴とも鷹とも言えない架空の鳥類が描かれている襖をコツコツつつく音がしてきます。「先生、お願いします……」
〝 おかみ 〟 の方の業務が一段落したということでしょう。着物からジャージにすでに着替えてきています。
「……はい」たしか元々バレーボールかバスケットボールかをしていて腰を痛めたことを思い出しながら、今度は自分が 〝 おかみ 〟 のように部屋の中に迎え入れます。「……どうぞ」
すでに部屋を治療院の中と見立てて、布団を施術台のように広げて、勝手に窓を全開にします。換気扇は老舗旅館の客間の中にはないみたいです。
「先生、お風呂はいかがでしたか?」
「……気持ちよかったですよ」
などと他愛ないやりとりをしながら、まずはハリの方を全身の要所に打っていきます。
「それはよかった」
すでにこの方に対しては何十回と治療をしてきているので、馴れきっているのでしょう。
「……今も全身がポカポカしています」などとわたしの方も悠長に返しながら、治療を続けていきます。「……じゃあハリはここまでで、ここから灸に入ります」
ぐらいの案内は、先ほどの 〝 お風呂 〟 の案内のようにします。似た外観の旅館が建ちならんでいるからには温泉街ということなんだろうここでは、 〝 お風呂 = 温泉 〟 なのかもしれないな……などと頭の方では引き続き悠長なことを考えながら、圧痛ポイントにもぐさというヨモギの葉の裏にある繊毛を精製した物を米つぶ大ほど置いて、線香を介して点火していく行為も1セットのように行っていきます。
「まだ足りません……」ポカポカしすぎて、少し頭もぼうっとしているかもしれません……「かね……」
それでも一応火を取り扱っているので、細心の注意は払う習性はすでに身についています。
「……じゃあもう一、二壮」ちなみに灸のことは〝 壮 〟 と数えます。そのいわれまで今は頭で考えていられません……「……据えますね」
灸の述語も 〝 据える 〟 で定っていることについても今は考えたくありませんが、肌に至る八分目ほどで火を消し、ヨモギの香りのする煙を自然界に戻していくように窓の方に払うしぐさは、手が勝手にやってくれています。
「……ふぅ」
〝 お風呂 〟 に浸かりすぎるんじゃなかった……
「……はぁ」
たくさんの効能がある温泉が職場の中にありながら、腰痛の方は変わらず残り続けているというのも、きっと今わたしがなりはてている状況にあるのでしょう。
「……えーと」
つまり、温泉は全身を温めてしまう。いくら半身浴などという用法が流行ろうとも、温泉を含めた 〝 お風呂 〟 全般は身体を面で温めてしまう。
「あぁ、だんだん温かくなってきた」
身体を面で温めてしまっては総じて水準が上がるだけのことで、腰の――もっと詳しいことを言えば、仙骨寄りの腰痛5番の右側にしこりのように奥で固まっている点だけを、温めて引き上げることは難しい。
「だんだんと痛みの方も」一人ひとりが感じる 〝 痛み 〟 というのは、点としてとり残され続けるかつての大学四年生のような存在だったりします。「他と同じようになってきた気が……」
もしかしたら、一度も安泰といった心情にはなっていなかったのかもしれません。
※ 続きは『本を気持ちよく読めるからだになるための本――ハリとお灸の「東洋医学」ショートショート』(晶文社)でお楽しみください。