case.3 幻肢
治療前に5分ほどの時間を設けて予診表を書いていただくのが、初代からのこの治療院のきまりとなっています。すでに常客となっている患者さんには問診ですませてしまうこともあるのですが、初診の患者さんには必ず書いていただいています。A4判の予診表には十五項ほどの質問事項があり
〝 主訴 〟
の一番大きな欄には、肩コリやら腰痛やら生理痛やらをほとんどの方が何かしら書きこむのですが
〝 睡眠時間 〟 〝 食欲 〟 〝 酒 〟 〝 たばこ 〟 〝 二便 〟
等のこまごました項目は空欄のままにしておく方が多いです。
〝 5時間半 ~ 6時間 〟 〝 少々 〟 〝 週末のみ 〟 〝 禁煙中 〟 〝 やや便秘 〟
逆にこまごまとした項目の方だけを残さずに書きこんで、主訴を空欄のままにしておく方もごくまれにいらっしゃいます。
「そうですか、睡眠は5時間半 ~ 6時間で、食欲は少々で……」
米粒大の文字を寿司詰めにして書きこんである項目にまずは触れておいてから、肝心の 〝 主訴 〟 をきりだしました。
「それで……主訴が空欄のままですが……」
書いて伝えるのに10分では足りなかったと小声で返します。
「全然問題ないですよ」
と患者さんを安心させる言葉と
「今日はどういった……」
と来院の目的をたずねる言葉のわずか10秒ほどの間で、患者さんはみずから長袖の上着をぬいで、左腕が半袖の長さで断たれていることを知らせてきます。
「後天のものです」
実体のないようなかぼそい声のまま、丁寧に 〝 主訴 〟 を説明してくれます。
「6年前にある事故でなくしたんですが、4年くらい前から違和感をおぼえはじめまして……」なくなったはずの左手の甲のあたりの空間に、鈍い痛みを感じるようになったのだそうです。「利き手ではなかったのですが……」
利き手ではなかったと卑小化することで、忘れようとすることもあるそうです。
「それでも左手が懐かしくなってしまう時に、多い気がします」
四六時中痛いわけではないそうです。
「肩を外に開いた状態ではなく、内に巻いた状態の時に痛くなります」
肢位もきまっているそうです。
「病院にも行ったのですが」
病院では 〝 幻肢痛 〟 と命名だけしてもらったのだそうです。
「突然四肢をなくした人に時々おこる症状のようで、私個人の症状ではないことを確かめられた点では、命名だけでも助けられたのですが……」
詳しい原因はわかっていないのだと、応対した医師に言われたそうです。
「体調等によって、昼夜だったり、三日に一回だったりするのですが……」
病院のあとにカイロプラクティックや整体、ヨガといった治療にも通ってみたそうです。
「そこで知り合った人に、ヤナギヤ……スレイでいいんですよね、ご存知ですか? その方のお話を伺いまして……」
主訴のメモをとりつつ治療法を模索していたわたしに、突如患者さんの口の方からヒントが与えられました。
「あぁ……柳谷素霊ですね」
柳谷素霊とは日本の鍼灸をヨーロッパに知らせた大家で、すでに半世紀以上前に亡くなっていますが、現在でも多くの鍼灸師から崇められている人物です。
「先生もご存知ですよね、フランスでのお話」
パブロ・ピカソにハリ治療をしたことでも有名な人物です。
「フランスで幻肢痛の人を治したというお話」
そのピカソを治療した洋行のおりに、幻肢痛をかかえたフランスの傷痍軍人を治療し、効果をあげたのだという逸話があります。
「あれって、伝説なのでしょうか?」
少なくともその時に柳谷素霊が採った 〝 巨刺 〟 という鍼法は現存しています。
「伝説なのでしょうか?」
その質問についてはわたしもはっきりと返すことはできずにいるうちに、是非やってみてほしいと語をついでくるので
「……やってみましょうか」
わたしも最善を尽くすことにしました。
「まずは脈・舌・お腹の状態を診てもよろしいでしょうか?」
どういった症状の根元にも体内の気や血のバランス失調があることを説明します。
「まず足の方にハリを打ちます」
説明をしないで症状と異なる部位にハリを打つと、不信感を抱かせてしまうので
「全身の状態が良くなれば、局所の痛みもやわらぐと思います」
逐一説明を挟みつづけます。
「脈とお腹の状態が整ってきましたね」
脈のバラつきや腹部のコリ・冷えを特定の経穴で整えて
「なんだか少し楽になったかも」
という患者さんの声も確認してから、今回の目玉・ 〝 巨刺 〟 の登場です。
「症状のある患側とは反対の健側の同部位にハリを打つのが……」
〝 巨刺 〟 という鍼法です、と尻すぼみの口調になったのは、実際はいたって単純な鍼法だからです。
「熱をもった患部に触れずに痛みを散らすことができます」
人体の左右の均衡が前提になっています。
「今は痛くないですが、いつもここが痛くなります」
と空間になっている一点を健側の指でさします。
「ここですね?」
該当する健側の示指伸筋腱沿いの一点にハリを1cmほど刺し入れて、そのまま20分間ほど留めておきます。
「いかがですか?」
本来 〝 巨刺 〟 は関節部のひどい炎症時に用いるべしと、先代から伝え聞いています。
「治療してもらう前の時点で痛くなかったので、変化はまだわかりませんが……」正直に感想を言ってもらいます。「でも背中のつっぱりなどが大分楽になってます」
わたしも正直に言うと、これで幻肢痛が改善したという手応えは薄いです。
「パンパンになっていた左肩の張りも緩んだ気がしますし」
どういった症状の根元にもある体内の失調は整えたつもりです。
「手の痛みももう今後出ないかもしれま……」
急に言葉につまり、まだたきを止めて、目元で何かをこらえはじめます。
「……すいません、左手と本当にお別れする気がしちゃって」
痛みがでなくなるというのも寂しいものですね、と語勢を落とします。
「……すいません、こんな時に、ははは」
わたしの耳にはきこえませんでしたが、おなかが鳴ったのだと自己申告します。
「普段はこんな時間に空くなんてことないのに」
体内の巡りが良くなっているのでしょう。
「じゃあまた痛くなったら電話します」
実はすでに半年以上前の話なのですが、まだ電話はありません。
「電話番号の最後の4ケタ」
表情をすこしだけもち直しました。
「ははは」
上着をさっそうと羽織ります。
「0273 ( マツナミ ) ですね」
治療院をあとにする足どりも、治療前よりずいぶんと勇ましくなっていたことをはっきりとおぼえています。